グループディスカッションというか、グループワーク(SFC生にとってはこういう方が馴染みがあるだろう)のコツというか大原則は中学校の国語教師によって学ぶ学ばない、または意欲によって覚えている覚えていないに分かれてしまい、意外なほど浸透していない。
会議を進めるというか、段取りよくするためには当然ながらある種のコツが存在する。
生徒会時代で編み出したというか学んだポイントを少し記述する。
長いので上のリンクからたどってください。
・まず会議は討論ではない!
グループディスカッションというと直訳すると討論に近いようにとれるが、内実としては会議である。この意識付けができていない。
何が違うといえば、会議は一定の目的のために情報を錯綜させる(企画会議でのアイデアの出し合いや業務報告のような情報交換も会議だ)のであり、討論は議論自体が目的で論と論の鍔迫り合いをするという違いがある。
無論、会議では一定の成果(物)が要求され、拙速が尊ばれる(早ければいいというものではないが)。論を無意味に戦わせてしまっては貴重な時間を費やすことになる。当然討論は論を穿ち合うことで互いの論を磨くことに意義があるために拙速は意味を持たない。
ちなみに私は土屋研では毎週の時間をパワーポリティクスを除いた会議、合宿での研究会報告を討論と意識付けて臨んでいる。
前者はより発表者の参考となるために意見を言った方がよいし、ただ”批評”するだけでは発表者に利益はない。(無論”否定”もであるが、それは最後の方に理由を記述。)
後者は論客として立ち振る舞えるか、というのをちょっと試して見たいからだ。ただ、おせっかいの虫がわくというか、徹し切れていないのか意識としては半々なきもする。
・進行役を用意せよ!
会議をスムーズに進行させるためには一定の役割が必要である。最低限”進行役”はいる。
生徒会に議長や書記が存在するのは(司会進行)と(実際の会議では議事録をとる書記ではなくてボード上で情報を整理する役)がいかに必要であるかという意識付けに他ならない。
人数が少なければ進行役が議長と書記を兼任してもかまわないが、進行役が意見を言うときには、その際に進行役と別の立場であると強く意識して立ち振る舞わなければいけない。つまり、進行役が議論に介入してくると会議が進行しなくなり混乱する事態を招く。結果、朝まで生テレビだ。
・決定事項を蒸し返すな!
前提条件が覆らないかぎり、決定事項は決して蒸し返して変更してはならない。一度でもこれをやれば悪しき前例となり無限ループに陥るだろう。
前提条件の根本から覆る状況に陥らない限り、問題点は補足や対案により修正可能である。そうでなければそれは既に前提条件が覆っている。
だからこそブレーンストーミングといった”決して否定・批評を行わないでアイデアを出し続ける”といった発想法が登場する。
”一定のプロトコルを持った拙速”をいかに実現するかがカギである。
・”罪を憎んで人を憎まず”で耐え抜け!
必ずいる輩が、否定(批判の悪い方バージョンだと思ってくれ)をされて(内容が建設的であれ非建設的であれ)怒髪天をつき、興奮して議論を崩壊させる奴だ。
進行役は合理性と妥当性と忍耐をもってこの事態を収拾せねばならない。そんな時間を使わせるな。
つまり、”意味も無く否定をする人間”や”否定や批評・批判をされて腹を立てて建設的になれなくなる人間”にはなってはいけないのだ。
人がどのような考えの下、どんな心理状況でどのような立場に立たされてものを言っているかは想像し難い。だから相手の言っている点の合理性と妥当性を自分の意見との天秤にかけ、修正すべき点があればそれを内包して修正案にして手柄を稼いでしまえばよい。
否定する方が気をつけることは「なぜその意見を否定をしなければならないか」を考えることである。
「否定をする」ということは相手を潰すことに他ならず、そこに合理性と妥当性が存在しなければ棄却された後に嫌われて村八分になるだけだ。その理由と論点を明示する責任は否定する側にある。
でなければ相手の意見がよくなるような補正案や対案をもって議論に望むべきである。
昨今政治の場での野党がなぜ弱いか、というのがこの辺から伺える。
野党は与党である自民党の否定しかしないから圧倒的に会議(国会)によって鍛えられ、培われる政治力(政策立案の能力や実現能力、説得力、諜報能力等々)が衰えているのだ。
対案も見たことがない。マニフェストだとか修正案だよとかいって民主党なんかが出しているのは実現性に乏しく無責任な紙切れに等しく、与党に反抗して立場を主張するだけのアピールに過ぎないので実際の”対案”とはかけ離れている。
つまり会議ができていない状態、自民党の暴走を自ら招いているのだ。
・”何もないところから作る難しさ”を頭に入れろ!
私は0から何かを生み出すことのできる人間を”天才”と定義しているのだが、三人寄らば文殊(天才)の知恵、会議ではそれが可能であろう。
しかし時間は有限であり、財産だ。天才が形成されるまで待ってられない。
そこで、1から改造して2や3を作り出す方法を考えて見てはどうだろうか。
例えば批判されることを前提に拙速でプロトタイプを作ってみる。
まずこれで「全くできませんでした」という恐怖から免れ、同時に0から生み出す苦しみのハードルも低くすることができている。
そして改善点をブレーンストーミングで洗い出して洗練していく。
こっちの方が楽だろうて。
最終的には場数を踏むことによる”場慣れ”で以上を体現することが肝心なのだとは思う。