リージョナルアナトミー論で「サイバースペースに見られる問題は何か?」という課題が出ております。
この課題をやる訳ではないのですが、ちょっとそれっぽいことをしてみようということで文章を書いてみます。
続きは↑のリンクから。
日本においてサイバースペースという仮想空間は、例えばインターネット上で形成されている空間であり、コンピュータネットワークによって人と人が繋がるコミュニケーションモデルを数多く示してきた。
そんなこれまでのモデルを強いて例えるなら「サンドイッチ型」だろう。匿名性が議論の苛烈さ・面白みといった質と量を担保するともてはやされたことは、リアルスペースの他に”ユートピア”としてのサイバースペースが作られるんだ、といった幻想を抱かせるには充分であったはずだ。これはバターや野菜によって分離されたバンズと具の如くであり、ハーモニーよりも野菜などのフレッシュさを食んで楽しむことが新しい食べ物ともてはやされてきたことに似ているのではなかろうか。
しかし空間をつくってつなげる役のメディア(インターネット)においては匿名性よりも商業志向で開示性が求められるようになってきた。国領先生の言う”オープンアーキテクチャ”しかり、”mixiでの晒し”現象しかり。また個人にまで第一次ニュースを収集するレベルが要求されるようになると、その信頼性の担保としての”身元”晒しが要される、といった具合に。
これらを考えると「サンドイッチ型」の時代は終焉を迎えようとしている。インターネットが至極大衆化し、匿名性神話が崩壊し、新しい秩序の形成期に入った今こそ「もんじゃ焼き型」の時代といえるのではなかろうか。
さらにその先を予想するならば、リアルスペースとサイバースペースの秩序の中に渾然一体のハーモニーを宿す大衆食「お好み焼き型」が跋扈するだろう。つまるところ、お好み焼きをお好み焼きたらしめん決定要因は”焼き方”であり、職人の腕の見せ所はそこになる。この様に、中身のレイヤーだけでなく外っ面のレイヤー(物理層の技術進歩やアプリケーション層の拡充)がサイバースペースから乖離して、”ハイパーリアルな現実世界”として着目を浴びる時代になるのではないだろうか。
もちろんインターネットが大衆化する時代においてはそう言った「見た目で分かりやすいところ」の議論が先行するのは至極当然の流れである。が、サイバースペースの本質たる技術の中身の議論が進まなくなるとするならば、問題視すべきではなかろうか。
日をまたいだせいで何だかへんてこな文章になった。あれれ。