2008年11月2日(日) 01:44
学校現場で起きる事件は全て「生きて」おり、その場で個々に対応しなければならない不可逆な現象であり、『指導』を以て対応が当てられなければ解決できないとされている。
また、この指導の積み重ねにより理想の教育が構築されていき、以て日本社会の問題を根本から解決できる、と一般社会にも思われている節がある。
理系出身初の文科省課長であった岡本薫によれば、こうした思考は「教育教」と呼べるものである。
たしかに、
・「教師」というカリスマーによる、「指導」という教義が行われている
・「指導」自体が神聖にして侵すべからずな思想である
・「指導」は現場で、直接、教員の手によって行われなければならない
・教義に手を加えることはもってのほかである
という要素はある。
学校現場で起こる問題を客観視しようと定量調査を行おうとすると、猛反発を浴びる。『心の問題を数字にする気か!』と。アナログな現象をデジタル化し、科学的な分析に回されるのを大変嫌う傾向がある。「教育教」は宗教であり、超科学である。科学を超えた存在であるから、不可侵なのだろう。
彼等は客観視されることを大変に嫌う。研究授業以外の、通常の授業を見られることも嫌う傾向にある。そもそも評価されること自体がカリスマ性を貶めるものであるし、教室内の唯一神の存在を否定することになるからだ。「ブラックボックスの方がやりやすい」ということもあるのだが。
現象のデジタル化は評価を容易にするものであり、受け入れられない。タイムカードを導入しただけで組合は大慌てというか猛反発だろう。出勤簿であれば改ざんしにくくなる(後で勝手に押印、など)し、時間外勤務の証明(帳簿の改ざん、事後報告など)もごまかせなくなるし、勝手な退勤やうさんくさい自己啓発研修もできなくなる。
教室の抜け出しの数をカウントするだけで、その学校の落ち着きぶりの現状を把握する指標となるだろうに、これもしているところは多くないだろう(教員が自分のクラスだけなんとなく把握しているくらいだろう)。
<マスコミ・民主党・日教組>スクラムのおかげでテレビではなかなか見られないが、中山元大臣の「自爆テロ」で、日教組の行いが多少は明るみに出ている節はある。これも、一種の情報化社会の「宗教戦争」なのだろうか。
written by sofuwe
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