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2007年1月17日(水) 23:35

学問のスゝメと国家と品格

「「神は『人間は自由で平等じゃ〜』」って誰かが言ったんだとさ。」

というのは「学問のスゝメ」の冒頭「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」を噛み砕いたもの。

つまるところ、神様がそう言わなきゃいけんほど、ソレまでは不平等で不自由だったっつーことでしょう。
福沢諭吉自体は生まれながらにして人の貴賎はできないが、学問によってその別は生まれるものだ、としています。

じゃあ”ソレ”とはいつのことぞや? といえばやはり「前近代」なのではないでしょうか。

福沢諭吉が活躍した明治維新のころ、日本は急速に近代化していったと言えますが、その中で憲法などによって”自由と平等を保障する”主体というのはやはり”国家”だった訳で、明治維新とは日本の”国家化”だったといえる気がします。

この”国家”が人権を保障をするための体力は、当時もう既に軍事化にあったように思われます。日本では「富国強兵・殖産興業」の元、急速な軍事かも進められました。

トフラーや公文俊平の言うようなS字波では軍事化・産業化・情報化の波はそれぞれの盛期に折り重なるように次の波の潮流が見て取れる(それぞれが連関して必要し合っているので当然といえば当然なのだが)のですが、福沢諭吉の言う学問の必要性とはすなわち”情報”の必要性。

軍事化まっただなか、情報の必要性を説いた福沢諭吉。
やはり先見性があったのだと思う。


ところで私は、「学のある人間に貴賎の貴・品格がある」という考えにたいしては否定的だ。
命題としては逆で、「品格のある人間に一定の学(ポリシー)があるのだ」と思う。

諭吉像の下でどれだけの学を身に着けたかはよく判らない。
が、自分なりの分と学をもって佇まいを正していきたい。

written by sofuwe [授業・研究] [この記事のURL] [コメントを書く] [コメント(0)]

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