レシピ

2008年11月3日(月) 00:53

たまには論文を書きたくなったりするもので



RQ;
なぜ「教育」論は数あれど、いずれも議論がかみ合わないのか


・仮説1
教育とは、国家のグランドストラテジーにすでに組み込まれている「手段」であるから、大目標となりえないのでは。(中目標・小目標・手段を大目標と誤解しているという前提条件からの崩壊、つまり議論の<場>がそもそも違うのでは、というもの。日本ではすでに「教育」自体が目的化している。)

・仮説2
様々な主体の思惑が交錯し、そのポリティクスによりあえてかみ合わされていないのではないか。
<岡崎説の援用>
誰からも非難を浴びないようにするために「綺麗ごとな御題目」を目標としているために、具体的な議論がなされない


ここまで書いたので後はだれか書いて(てへっ

written by sofuwe [授業・研究] [この記事のURL] [コメントを書く] [コメント(2)]

Comments

『タイトルなし』

両方とも正しくかつ、それだけではないという意味で間違ってもいる。

グランドストラテジーという言葉を使ってしまうが、共有されないグランドストラテジーはトイレットペーパーほどの価値もない。しかし共有しようと思えば抽象論かお題目ばかり……まあ、固有の宗教も持ってないし、文化や伝統は自己破壊と自己批判が大好きだしな。そもそも一元論ニガテという話も。

とかなんとか。

written by かのう

『じり貧』

ご指摘ありがとう!

>両方とも正しくかつ、それだけではないという意味で間違ってもいる。
この指摘が出たというか、列挙してしまった時点で「ただの要素と思われるモノの羅列」になってしまった感が否めない。いくつ挙げようが帰納的に証明できるわけでもないし、科学的でない。センスなくなってしまったなぁ。。。

>固有の宗教も持ってないし
「教育」自体が宗教化したことで議論という科学的作業を放棄した、という要素もあるかもね。

一元論が苦手というところもあるけれど、なんでか知らないが「教育」に関してはあの手この手で勝手な目線から話が飛び出てくる。そういう意味では仮説2は教育論が一元化されないというアプローチになるかもしれない気もする。

written by ゑ

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